昭和52年01月22日 朝の御理解



 御理解 第53節
 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」

 信心は、字が示す様に信ずる心とあります。何処をどういう風に信じるかと申しますと、御利益を受けたから、おかげを受けたから、神様はやはりござる、と言う風な信じ方はもろい。なぜかと言うと、そんなにみやすう自分の思い、意のままに神様がおかげを下さる事は無いからです。ですから、本当に本気で信心をさせて頂こうと思うたら、その信ずる心と言うものを愈々鍛えさせてもらう、神様を絶対なものとして見たら、そこから言うならば、これほど信心するのにどうしてこの様な事が起こるであろうかと思うたら、もう信心じゃない。
 これはまあだ私の信心が足りんのだと思うて、一心と信心を続けて行く。どんな場合であっても、これはまあだ私の信心が足りぬから、右になろうが左になろうが神様のおかげ、神様の働きは寸分の狂いもないんだと。例えば信心を身に付けるという事はね、そういう信心になる事だと思うです。そしてそれが三年経ち、五年経ち、十年経っていっている内にです、その十年間なら十年間に起きてきた、信心しよってどうしてこういう事がといった様な事まで一切が、成るほどおかげであったなと分かる、それがあれもおかげであったこれもおかげであったという事なんです。
 一寸何日か参った、一年か二年かお参りをしてみて大したこと無かったからという様な、何故かというと信心はもう、ギリギリ人間の幸福の条件が足ろうて来る程しのおかげが受けられるという事ですから、例えば仕事を始める商売を始めると言うても、やはり幸せになりたいから成功したいから、仕事に力を入れるのですから、ですから、なんでも言うならば石の上にも三年という諺がある様に、三年なら三年、本気でそれを辛抱し続けてみる。どう言う事になっても、どう言う事が起こってきても。言うならば神様を、言うなら信じさせて下さい分からせて下さい、という信心が出来てくる。
 そこから例えばおかげを頂いて来るとです、その三年間なら三年間の間を振り返って見て、成る程あれもおかげであったな、これもおかげであったな、いや色々考えてみると、自分が生まれて此の方の一切の事がおかげであったという事が分かって来るのです。信心というものは、だから過去の全てを生かしてくる事、生かす事なんです。その時に初めて、あれもおかげであったなこれもおかげであったなという事がらしいおかげも頂かんのだけれども、実を言うたらそうじゃあないですよね。
 それこそ奇蹟的なおかげ、そういうおかげとか、又は肉眼で見る所のおかげではない様な様々な事を通らせて頂きながらもです、只ひたすら一途に進んで行くのはこれは、まあだ自分の信心が足りんのだと、信心を練り信心を究めて行く姿勢を以てしなければです、あの世までも持って行けれるのですから。もう本当言うたら、もうあの世に持って行けれるという事が一番素晴らしい事なんですけれども。
 そこは人間が言うなら凡情ばかりですから、神様の働きをハッキリそこに見せて貰い聞かせて貰うて、神様の絶対を信じさせて貰うて心の中に信心の喜びが頂けて、この喜びを持って行くならば、あの世もやはり光明世界に住む事が出来るだろうと心の中に、光を感ずる、心の中に明るい日々を過ごす事が出来る、教えが何時も支えてくれておる、そういう信心をそこまでは頂かにゃいけません。
 信心を、言うならば究めに究めて行く姿勢を、信心とは結局信ずる心、何を信ずるかと言うと神様を信ずる、神様の働きを信ずる、それなら神様の働きはどの様にあっておるかというと、神様は、氏子幸せになって呉れと言う御一願だけしか無いという事。神様には、氏子幸せに成って呉れ、信心しておかげを受けて呉れよという、この一つの願い以外にないという事、神様を信ずるという事はそうなんです。
 そういう神様が、言うならばおかげを下さらん、人間の幸福の条件というなら経済も難儀しておる、体の上にも言うなら病気勝ちである、人間関係も思わしう行かないと言う中にあってです、そこを信じて、人間関係の上にも経済の上にも、又は健康の上にも足ろうたおかげを頂いて行けれる。しかも魂の清まりに従って心に感ずる安心の喜び、その安心の喜びこそがあの世に持って行けれるのである。
 そこに素晴らしい、言うなら死生感も生まれて来る。大変難しい事を言う様ですけれどもです、信心とは私共がこの世に生を受けて、そしてこの世に生を受けて来たという事は、そこを頂く為に人生五十年があり又は百年が有るのです。ですから結局神様を愈々信じて疑わない所の心が出ける所まで、そこが言うならば、あれもおかげであったこれもおかげであったと分かる様になると真実の信者だと。その辺から楽しゅうなって来る、いや有り難うなって来る。もう修行が身に付いて来る。
 だからここん所をね、一つ、まあ信心の本筋を今日は皆さんに聞いて頂いた。信心とは、もう参って見なさいおかげを頂きますがと、そりゃあもう奇蹟的なおかげもどんどん、今、合楽では頂けておられますがと。昨日はあちらは何と言いますか、日田の一の宮さんという大きな雑貨商でしょうかね、まあ万屋さんのちょっと大きなものをなさっておられる。いつも毎日お店が切りがついて、夕方から家の横で箱やら色々な物を焼かれる。所がその日に限って、昼焼かれた。
 そしてそれを消して自分は山に行かれた。もう帰ってみた所が自分の家の周囲は黒山の様になっておる、人がたかって。話を聞いてみると、それも消した筈の火が風で横にあったダンボ-ルの箱に燃え移って、それが天井にまで火がこう移って来た。それを道を通っておる人が見つけて、そこの番頭さんと二人で消し止めた。それがその有線放送で放送したもんだから、もう村中の町ですかねあそこは、自動車ポンプが集まった。
 もう沢山の、昼ですから人が集まって消して頂いたと、おかげで商品にも大した害も無くて。けれども先生、もう考えてみますと、もう本当に大変なおかげでしたと言う。これが何時もの様に夕方であったとするならば気も付かないし、晩だったらこれだけの人も言うならば、もっと集まらなかったでしょうが。もう改めて神様のおかげを本当に感じましたと言うてから、昨日お礼に出てみえました。
 東京から手紙が参っております。心臓に穴が二つあいとった。それがおかげを頂いて二つともつぶれておる。もうそれでお医者さんが、もう不思議がるなさる事不思議がるなさる事、もう手紙の一番初めに書いて「親先生、有り難うございます有り難うございます。心臓の穴は神様に塞いで頂きました。広大なおかげを頂きまして、何と神様にお礼を申し上げて良いか分かりません。
 有り難く有り難く、おかげを頂いた事に感謝で一杯でございます。」とある。この先にお医者さんがたまがられる事がずうっと書いてあります。そげな事のある筈がない事だそうですね。という風にです、ならおかげは例えば頂きます、けれども今日はそういうおかげをもう無いものとして頂くと言う事。信心というものがこの様に大切なものだと、もう人生の重大事なんだと。
 そういう尊い有り難いものを頂くに当たってです、愈々天地金の神様の働きを私共が信ずるという事は、信じ切るという事は、そこに例えば、それこそ三年五年の信心では迷い易い、十年と続いたら我ながら我が心を祭れ、と仰せられる程しの言わば信心を頂かなければならない。そして起きてくるどういう様な事があっても、これはまあだ私の信心が足りぬのだという生き方を以て、そういう主意を以て進めて行くならばです、十年なら十年経ってみて、初めて、様々な事が起こってきた。
 様々な忌まわしい事もあった、悲しい事もあった苦しい事もあったけれども、その一切がおかげであったと分からせて頂ける時に、言わば、あれもおかげであったこれもおかげであったと分かれば本当の信者じゃと仰る、本当の信心が出来る、そこから人間の幸せの言わば条件の全てが足ろうて来るのですから、そこまでは押し上げて押し上げて押し上げ抜かなきゃいけんのです。
信心とは神様を信ずるという事。今日私は、今朝方お夢にそこの信者控室ね、喫煙室、あれがちょうどあの儘の形でこのお広前位に広いんです。そしてそこに一杯の人が、上が畳になって下が板張りになってますけど、その板張りの所にも一杯の人がお茶を飲んだりお弁当を開いたり、それから上の方にも一杯の同じ様な状態、もうそれが何か喜び一杯の情景で、それから上の方え何時も花が活けてあります、そこにはもう色々とりどりの花が一杯あそこに飾ってある所を頂いた。
 まあ言うならば御本部の下の方の控えの様なあんなに広いんです。そこに一杯の花がもう見事に美しく、色とりどりの花が飾ってあって、下にはお茶を飲んだりご飯を頂いたり、まあ喜びの集いがそこにあっておるわけです。丁度あのまんまの形ですの、そんなに広いんです。そういうお夢の中にお知らせを頂いた。それから、昨夜遅う出て参りましてから、皆さんの事をお願いさせて頂いておりましたら、その頂きます事がね、歌舞伎十八番の、弁慶がこう勧進帳の空読みをやっておる所、その勧進帳の方を見らずに、言わば横の方え横目を、言わゆるウインクしておる様子を頂いた。
 まあそういう二つのお知らせを頂いて、今日は御理解を頂きましたら五十三節ですけれども、なら五十三節のここは、信心の所を、五十三節から今日は聞いて頂いた。そして今私が頂いた事をどういう事かと一遍頂き直す。私は喫煙室という事は言わば憩いの場、言うならば一服する所だとこう思うです。言うならば安息所です。私はここのお広前はね、そういう、どういう心配があっても、どういう悩みが有っても、ここで、お広前でご祈念をさして貰い御理解を頂いておるとです、そういう難儀を持っておるのとは思われない位に心が安らがなければ嘘だという事です。
 昔の御理解の中に、ここには信心の喜びの花を咲かせに来る所だとこう。ここには信心の稽古に来るという事は、ここには信心の喜びの花を咲かせに来るところだ、そして実は家でちぎれと言う様な御理解を頂いた事が有ります。だからここへ参って来てもです、有り難くもなからなければ、心の安らぎも、もし感じないとするならば、そういうお参りでは、お参りの値打ちが無いと言う事に成ります。
 それでも、ここでそういう何ものも頂けないとするならばです、頂くまでは御祈念をするとか、頂けるまでは御理解を頂くとか、お広前という所は心の言うなら安らぎの場であるという事です。もう来るまでは心配で心配で堪らない事がです、不思議に心配が無い様な心の状態になれるという所だという風に私は思いました。皆さん此処にお参りをして見える、御理解を頂かれる、本当にもう初めて聞いた御理解、成るほどあげん所が自分には欠げておった、そういう事は今まで本当に知らなかったと、
 例えば教えを分からせて貰う喜び、心の安らぎ、もう既に此処でままになるおかげが受けられる、その基が出来る。又はここで腹が座る度胸が出来る、そういう働きをする所が私はお広前だと思うんです。花が一杯飾って有るというのは心の花を咲かせに来る所、一服しておられるのは、どんなに例えば悩みとか苦しみが有っても、ここえ来らせて頂いて御祈念をさせて貰うたりお話を頂いておると心が安らぐ。心配は此処に置いて行けれる、という私はおかげの参拝でなからなければ参拝の値打ちは無いと思う。どうでも願っておかげを頂かなきゃならない事がある。
 どうぞ神様、どうでもの願いに立って一生懸命お願いをする御祈念もする。そんならば教えを頂いてです、本気で真面目にです、傍目もせずに、外ん所にウインクする様な事をせずにです、人に頼り物に頼る様な事をせずにです、一心に、その例えば勧進帳をそれが例えば空読みであってもです、そこには通せないけれども通してやろうとする働きが、言わばあの関を弁慶達主従が通れる事になるでしょう。
 本当なものは出来んにしても、真面目に例えば読み上げておると言うこれならばです、おかげが頂けれるのだけれども、その教えの方やら真面目であるという、真面目に一生懸命やっている事をせずして、外の方え言わば色目どん使っとる様なことではね、神様もそりゃもう出来んなりにです、神様が蓮根食うて下さっておかげを下さる様なおかげでも下さるわけにはいかん、という事です。
 だから今、二つの、私が夢やらお知らせ頂いたその事をまあ思って頂いて、やはりそういうおかげも受けなければならない。同時に合楽という所は素晴らしい所だ、どんなに心配が有っても心配がないものの様な心が安らいで来る。心配が有れば有る程、合楽に通わせて頂きさえすれば心配が消えた様な心の状態になったり、どういう事で有っても、どっこいという、言うならば度胸が出来て来る。そういう信心が繰り返し繰り返しなされるのですから、例え苦しい事が有っても楽しいでしょう。
 そういう信心をさせて貰いおかげを頂きながら、今日は前半に申しました様な所に、信心とは神様を信ずる事なんです。そして自分の思う様にならんのは、まだ自分の一心が足りんのである。本気で真面目になっていないのである。例えば向こうに、矢場ですかね、矢を射る向こうに標的が有ります。その標的に向かってこちらが矢を射るのです。当たらなかったからと言うて、標的に文句言う訳にいかんでしょうも。
 はあ矢がこっちさえ来よるけんで、標的の方がこっちえこう来るという事は絶対ないです。かと言うて段々稽古を続けて行きよると、百発百中的を射ぬく事が出来るのです。だからこちらのね、まあだ精進が足りんのだと、神様はその様に絶対のものなんだ。只こちらの信心が足りんのだからおかげが受けられんのだ、と信心を進めて行く。それがそういう信心姿勢を以て信心を進めて行くならばです。
 愈々神様が信じられる事になって、どういう問題が、その五年なら五年、十年なら十年の間にあっておっても、そのすべてが深い深い神様の御神慮であった、神様のおかげであったと分かって来る。それが、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かる。ほう、そら信心するならそげな信心ば十年も続けんならんじゃろうかという様な事で〔は〕、おかげを頂けんのです。
 十年は二十年掛かってでもです、そこん所を頂き止めておかなければこの世に生を受けた値打ちが無い。そこを頂いとかなければあの世には行かれんという位な気持ちで、人間の人生の一番最大な重大事であるという事を一つ分からせて頂いて、成る程こちらの心掛け一つで、こんなおかげが頂けるという体験も頂いて、又どういう心配が有っても合楽に通うてさえ行きゃ不思議に安心の心が頂けれる、度胸が出来る。
 有り難い事であると、そういう有り難い事もです内容にしながら、愈々間違いの無い信心の姿勢というものを取らせて頂いての信心です。それは人生のそういう重大事だからであります。今日は、私はその頂いたお知らせと、それから此の五十三節にある、神様を信ずるという事は、まず神様を疑わないという事であります。どういう事が有っても、神様は当てに成らんといった様な思い方をせずに、どう言う事が有っても神様を疑わずに進んで行く、そこから愈々信ずる心、言うなら確信出来れる神様を頂く事が出来る。
 そこからが人間の幸福の条件も全部足ろうて来る、この世に極楽を言うなら謳歌しながら、そしてその心の状態で魂の世界に入って行けれる。この信心の光を言うならば持って行けれる所にです、光明世界が待っておる事になるのです。今日は、そういう言うならば大変な所を聞いて頂きました。
   どうぞ。